2.赤橙(前半)

2.赤橙(前半)

「山のあなたの空遠く
『幸』住むと人のいふ。

噫、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く
『幸』住むと人のいふ。」(カール・ブッセ 上田敏訳)

+ + +

9月9日、次のバイト先の仙丈ケ岳に藪沢から登った。標高2000m以上まで林道バスで入れるため、登山道は平坦で短かったが、足取りは重かった。
ザックには着替えや山の道具、それに大量の本が入っていて、軽く20kgはあった。
でも槍ヶ岳だってそうだった。重い荷物には慣れている。問題はそういうことではないんだ。

何を悦に浸っているのだろうか。
東京での大学生活を、周りの人々とのつながりの中できちんと続けて卒業することこそが、本当はより大変で価値あることではなかったか。
それを投げうってひとりきりで何を目指そうというのか?
多分そういう重さだった。

馬の背の分岐をすぎたあたりからハイマツ帯に入り、視界が開けてきた。




仙丈ケ岳のなだらかな頂上と、広いすりばち状の藪沢カール、その根元に立つ二階建ての小屋が見えた。巨大な山塊のなかで、視界に入る唯一の人工物だった。
ここがこれから自分が住む家なのだ。

夕方ごろに小屋に着くと、同い年くらいのバイトの青年が出てきた。名前は岡といった。彼にまずバイト部屋に案内してもらった。地下の食料庫の片隅に板を張って床と壁を作っただけの小さく粗末な部屋で、バイト3人が布団を横に並べてようやく寝られるくらいの広さだった。
うむ、これでこそ山小屋だ、と満足した。

その日は部屋で休憩した後、管理人室で支配人とバイトの皆で夕食をとった。
支配人は訛りの強い初老の男性だった。長年山小屋の仕事を続けているのが風貌からも見て取れた。
バイトは岡の他にも2人いた。信州大の学生と、小屋開けからずっといる古株の後藤さんという男だった。彼はひとつ年上だったが、口調や仕事の手際のよさはずっと先輩であるように思えた。

翌日から仕事が始まった。小さな小屋で、バイトの人数も少ないため、槍ヶ岳とは異なりフロントと売店、厨房と全ての仕事を交代で全員がこなす。
朝は4時ごろに起きて、朝食の準備から始まる。客の朝食が全部片付いてから、7時過ぎにようやく自分たちの朝食の時間になる。朝食後は布団を畳みなおし、客室と食堂、トイレの掃除。登山客の多い休日は売店の仕事もある。飲み物やバンダナなどを売り、カップめんやコーヒーの注文が来たら厨房に伝えて持ってきてもらう。
一日に二回、午前と午後にお茶の時間があり、仕事の手を休めて休憩できる。他には原則として休みはない。
掃除がひととおり済むと少し暇な時間帯になる。売店の番以外は来客の対応と電話番。日によって作りおきの料理を作ったり、小屋の細かい補修をしたりと仕事がある。午後になると泊り客が続々と登ってきて忙しくなる。
お茶の後は夕食の準備。宿泊客の夕食は5時から始まり、6時半ごろに片付け終わる。自分たちの夕食をとって解散するのが7時半ごろ。バイト部屋に戻って9時には寝る。

一日の流れは大体こんな感じだ。基本的に休みはお茶の時間以外なく、休日もない。仕事こそが生活、という感じだった。


+ + +

9月11日は日曜の朝なので忙しかった。客が多いとそれだけ食事の準備に時間がかかる。この日は早番で、4時半から厨房で仕事だった。
仕事がようやく一段落して、フロントの上に取り付けたテレビでニュースを見ていたら、失言問題で大臣が辞任していた。あの地震から半年たっていたことにそれで気づいた。
それにあのテロ事件から10年の日でもある。世界各地で黙祷する人々がテレビに映っていた。

今日の宿泊はわずか9人。昼間は売店の番をしながら、客が来ていないときは売り物の植物図鑑を読んで過ごした。

布団をたたみながら、バイトの3人でとりとめのない話をする。
バイト長の後藤さんは北海道の出身で、高校を出ないで働き始め、日本各地を転々としながら過ごしてきたという。山小屋のバイトは2回目だが、ホテルなどで働いていた経験があり、厨房での仕事は慣れているようだった。

「お前、東大なんだってな」
「はい、そうですけど」

「ふーん、で、いつまでいるの?」
「10月までです。ちょっと色々考えて、一年休んでいるので」

「…いやあ、お願いがあるんだけどさ、東大女子紹介してよ。女子大生。そういう真面目そうな子と合コンとか、すげーしてみたいんだよ。女の子の知り合い紹介してくれない?」

「はあ、いなくはないですけど、たぶん後藤さんの好みじゃないと思いますよ。大人しい子ばかりなんで」

「ばかおめえ、そういうのがいいんだよ。俺の周りなんかビッチばかりだからさ、マジメな女子大生とかすっげ楽しみじゃねえか。」


やれやれだった。後藤さんは僕の大学について聞いたのはそんな事ばかりだった。仕事の間中も暇さえあれば冗談を言ったり、下ネタばかり話すのには閉口したが、仕事は手を抜かず親切に教えてくれ、支配人からの信頼も厚かった。
もう一人のバイトの岡は、山小屋どころか山に登るのも初めての21歳の青年だった。最初から最後まで敬語を崩そうとしなかったし、振る舞いもどこかぎこちなくて、遠慮がちに見えた。自分も槍ヶ岳では初めての山小屋だと思って萎縮していたので、無理もないなと思った。

午後からの夕立も夕方には晴れて、東の空に大きな虹が見られた。八ヶ岳付近に大きな積乱雲が立ち上り、ときおり稲妻が光っていた。
客の少ない日なので、管理人は食堂で外の景色を見ながら、客とずっと喋っていた。こんな天気の日は特に良い写真が撮れますよ、と嬉しそうに語っていた。


















仙丈小屋は、仙丈ケ岳山頂の南側、藪沢カールの緩やかな斜面の底に建っている。カールは大き目の礫が敷きつめられた広く緩やかな谷であり、氷河地形のひとつである。小屋の少し上には三日月形に礫が積み上がった、モレーンとよばれる地形がある。いずれも氷河期にこの場所に氷河が存在したことを示している。

小屋は谷の底面に立つため、三方向を稜線に遮られて、眺めが良いのは北側だけに限られる。北東の手前にまず甲斐駒ケ岳の武骨な白い姿が聳え、そこから西へ鋸岳の険しい稜線が伸びている。背後に黒く並び立っているのが八ヶ岳で、さらに遠く向こうには秩父や日光の山まで見える。
















一方西側には手前に伊那谷を見下ろし、その向こうには中央アルプスが壁のように見える。北西には松本平と北アルプスの全山が見える。
明け方には霞の上に3000m級の山々だけが姿を出して、槍から穂高までの連なりがはっきりと見分けられるくらいだ。その中でも槍ヶ岳の尖った輪郭はひときわ目だって見える。僕の先月までの職場だ。
親切な人も憎たらしい人も色々いたが、今もあの場所で彼らが働いていると思うと懐かしい。


日が暮れて7時過ぎ、管理人は大きな声で食堂にいた客をみんな呼んで、東側のベランダに誘った。
満月に近い月が東側の稜線上にゆっくり顔を出すところだった。
皆カメラを構えるのも少し忘れて、その円い光を、息をのんで見つめていた。言葉にすればそれぞれ違っても、同じようなことを感じているような気がした。
これはまるで…
「まるで、菩薩さまのようだ」


天文学は、数学や医学と並んで、現存する科学の中では一番古くから存在するといわれる。
太陽や月の動きは、暦の決定という実用的な目的のために詳しく観察され、人々に記録されてきた。洪水の時期や収穫の時期を知るために、正しい暦を作ることは必要に迫られたことであり、目に見えて分かる太陽や月の動きの規則性は人類の歴史のずっと最初の方から把握されていた。
さらに古代の人々にとって、天文学は聖なるものでもあった。不規則に移り変わる地上の風や雲や生き物の世界に比べて、天上の物体たちは地上の物事に決して影響されることなく、音も立てずに定まった動きを繰り返し続ける。
それはまるで完全にして永遠の、透明な軌道の上を進んでいるかのように思える。天は神様の世界であるから、天体の運動も地上のモノの運動とは質の異なる、より高次なものであると考えられたのである。

満月が神々しく思えるのは、それが完全な円に近いからだ。
現代の生活ではもはや忘れてしまうことだが、原野での生活を想像してみればわかる。木や石や果物、みんな歪な曲線を描いている。円は水面の波のようなものにしか現れない。
純粋な円の実体は、地上には存在しないのだ。人間が作らない限りは。
概念的な創造物でしかなかった円を、太陽や月はその姿や軌道で描いて見せてくれる。そこに本能的に何か巨きなものの存在を感じるということなのだろう。
(中世まで続いたその見方は、教会の強い支配のもと、地動説や楕円軌道の発見と定着を妨げる原因ともなった)
だから天体は完全な秩序を体現する神聖なものとみなされ、その運行を正しく知ろうとする営みは、当時の最高の頭脳の持ち主によって担われていた。例えば古代メソポタミア文明では「神官天文学者」がその仕事をして、太陽暦、大陰暦にあたる暦をつくった。またそのとき定められた「黄道十二星座」が、今も星座占いとして使っているあの12星座である。


僕がこの場所に来た理由について考えた。
この場所では空がずっと近くにある。星だって、今日の明け方みたいに晴れた日には、4等星まで見える。空の雲や光の現象も、上層、下層とはっきりと見られる。
僕はこれがしたかったんだ。


今まで、まるで自然は僕達の妄想だった。
大学では色々な手法を学んだ。自然を観察し、分析し、その結果を解釈するための細かいやり方を来る日も来る日も習得させられていた。
今や僕は、気候変動の予測に使う基礎方程式だって知っているし、コンピュータの中に惑星を作り出してその運動や衝突を再現することだってできる。
OK、もう十分やったじゃないか。そうやって賢くなったような気がして、偉いといわれている仕事をしていくこともできるように思う。十分な人生じゃないか。

でも本当に賢くなったのだろうか。
僕らは本当に自然を分かってやっていたのだろうか。


たとえば決して試験には出ないから知らなくても平気だったけど、惑星がどこにあって、どんな風に見えるかを僕は今まで一つも知らなかった。
空が青い理由だって知らない。ミー散乱とか言葉を持ち出して説明することはできる。でもその証拠を示すことも、そうでなければならないことを論理立てて示すことはできない。
温度や気圧を計るための器具だって、ひとつとして自分で作ることが出来ない。


いわば僕は、誰かの作ってくれた足場が既に高く高く積み上げられた塔の上に立っていて、
その上にちっぽけな何かを建てようとしていたのだ。自分の立っている足場の組み方は何一つ知っちゃいないまま、もはや高く登りすぎて地面も見えなくなった。

だから僕はその塔からためしに飛び降りて、できる限り自力でもう一度よじ登ってみようと思ったのだ。


自然はここにある。
その自然を感じるための五感も、自分には備わっている。
まずはここから始めなくては。




例えば毎日の風の吹き方、雲の見え方の移り変わり。星や月も日々その位置を少しずつ変えていく。
暖炉で薪を燃やせば暖かい光が出る。
そうした一つ一つのことを、五感を使って、ただすみずみまで感じることに集中してみよう。
そしてその記録を、少しずつ積み重ねていきながら、少しずつ、必要な程度だけ、概念付けを挟み込んでいく。

そうして初めて、自然は妄想でなくて生きた現実になるだろうと思った。


+ + +

翌朝は遅番なので、4時に起きた。仕事の時間まではまだ余裕があった。外で星空のスケッチをした。
東の空に上ってきたオリオン座とふたご座、その上には黄色い一等星カペラを頂点とするぎょしゃ座の五角形。おうし座の背のほうの星の集まりはプレアデス星団。6個の星が見分けられるほど空は晴れて澄んでいた。

古代の人が最初にしたことは何だろう、と考えて、まずはスケッチから入ることにした。
目に見える星を見えるだけ書きたいが、今日は東の空からだ。明るい星を最初に結んで輪郭をつくり、次第に小さな星を加えて行く。

















4時半に夜が白みだして小屋の明かりもついた。バイト部屋に戻って、書き写した星を星座盤と比べてみた。


この日は5時半から厨房で働き、7時すぎから掃除をした。午前のお茶の後は客も入らず暇になった。
フロントで電話番をしながら、客が来るのを待った。
フィールドノートと鉛筆一本をポケットに忍ばせておいた。ときどき一時間くらいごとに、空の記録をとるためだ。

2000m以上の山に登ったことのある人ならお分かりだろう。高い山から見ると、眼下に広がる雲海や、斜面に湧く積雲がすぐそばに見える。雲は青空に映し出された天の幻などではなく、現実にそこにカタチと重さを持って浮かんでいることが。雲の高さは無限の高みではなく、人が高い山に登れば届くほどの距離なのだ。

時刻と温度、現在天気、風、雲形、流れる早さや色などの特徴を記録する。
例えばこんなふうに。

13:10 晴 13.5℃ 1013hPa
無風
上 Ci ごくわずか
Cs 北側遠方
中 -
下 Cu 八ヶ岳などに沿う 北アにも雄大積雲の群れ
      北方はるか遠くに東西に並んだCuの列

雲はその生じる高さに応じて上、中、下層雲に分けられ、さらにそれぞれ細かく全部で10種類に分けられる。例えば晴れた日の上空にふわりと浮かぶ薄い羽毛のような雲は巻雲(Cirrus)とよばれ、Ciと略記される。

雲の色や形は見たとおりで分かる。では大体の大きさはどうすれば分かるだろう。
ある距離に見える雲の大きさは、距離は地形から見積もるとすれば、それが視野の中で占める角度を測って求めることができる。
そこで視半径を測る道具を考えてみた。

遠くに見えるモノと、近くに置いた目盛を重ねて読むようにすれば、近くの目盛りまでの距離との比から、そのモノの視半径を求められる。
そこで、筒の中に十字に目盛りをつけた糸を張った、とても簡単な仕組みを考えた。
ラップの芯を厨房から拾ってきて、単純な紙工作を10分程度で完成させて、メジャーで測った長さをもとにして精度を測ってみた。
当然ながら精度は大したことないが、伸ばした指などで測るよりはマシかな、というくらいのものにはなった。

後藤さんと岡は厨房での仕事を一段落させ、ふざけ合っていた。どうやら岡がいじられ役として定着してしまっているようだ。

「岡おまえ、何か面白い話しろよ。暇なんだよ」
「そんな、急に言われても思いつかないですよ。困りますよ」
「急にじゃなかったらいいんだな、じゃあ明日話せよ。約束だからな。おい雨宮、岡が明日面白い話聞かせてくれるらしいぜ」
「そんなこと言ってないですよ、勘弁してくださいようー」

やれやれ、と思って2人のやりとりを見ながら設計図を見直していると、
「あ、何こそこそ作っているの、さては覗き見の道具だなあ~?」
ときたので、
「違いますよ。大体こんな所で誰を覗くんですか。天体観測です」
というと、
「え、変態かんそく?俺のこと?」という。
やれやれだ。


次の日、作った道具を使って月の直径を測ってみた。満月に近い月は、非常に大まかに、1:100という値になった。
すなわち、月の直径は、地球から月までの距離のおおよそ100分の1ということになる。一方の値を知っていれば、この関係からもう一方が分かるということになる。

しかし僕はこの時点ではそのどちらも知らない。
もちろん人類はそれを知っている。理科年表を見れば現代の精密な観測で求められた正確な値が、日変化も含めて知ることができるだろう。それを調べるだけならすぐにできる。
でもその数字を参照して、憶えるだけなら、それを「知っている」ことにはならない。


知識とは何だろうか?
僕たちは色々なことを「知っている」。けれどそのうち、本当の意味でそれを理解して信じていることは、どれくらいあるだろうか?


次は、視半径をもっと正確に測るための工夫と、月までの距離を測るための方法を考えることだ、と決めた。

+ + +

9月14日
3日続けてやってみたら、段々と星空のスケッチにも慣れてきた。主な明るい星の配置はだいぶ憶えられた。
手がかじかんで描けなくなるころまでスケッチをして、部屋に戻って星座盤と照らし合わせてみる。
今日はひとつ発見があった。ふたご座の2つ並んだ明るい星を結んで、下の方に延長していくと、その線の少し左側に橙色に輝く星がある。明るさは二等星くらいで、特徴的な橙色をしていた。

「この星は、載っていない…」

4等星までの主な星が載っているはずのその図に、その明るい星に対応するようなものは何も見つからなかった。つまりこれは、どの星座にも属していない。
どういうことだ…?

最初に種明かしをすれば何のことはない、これは地球とともに太陽を回る惑星のひとつだ。

けれど僕はまだ知らない。教わったかもしれないが、まだ知らない。
僕が知っているのはただ二つの事実だけだ。ふたご座の左下に明るい橙色の星が見えること、その星は目立つにもかかわらず、どの星座にも属していないということ。

ではどんなふうにすれば、それが惑星であるということを信じられるだろう?
ここに一つの目標ができた。今まで大まかな方針しかなかったが、ここに来てようやくそれを具体的にすることができた。
僕がこれからしていくことは、あの橙色の星の正体を明らかにすることだ。

歴史的にはそれは16世紀に達成されている。
天動説が常識とされる教会支配の時代が長く続いたのちに、コペルニクスがそれを覆し、ケプラーが楕円軌道によってその運動を正しく理解するに至った。

その先人たちの足跡を、もう一度辿ってみたい。
必要最小限の知識と、数学と、自分の手に入る道具だけを使って、できる限り自分の手と頭で証明することを試みるのだ。

不思議ではないだろうか。「惑星」の名を冠するような学科にいたというのに、僕は今まで一度もそのことを思いつきすらしなかった。自分の取り組もうとしている対象が妄想かもしれないままで、平気で大学院生を名乗ろうとしていたのだろうか。


では、そうと決めたら、まず最初に何から始めようか。
惑星の軌道を考えるためには、まず、もっと基本的なことから順番にやっていかなければならない。
ノートに目次を書き出してみた。

1.太陽や月や星は本当にそこにあるのか
2.方位の定義
3.時間の定義
4.地球が球形であること
5.天球上の星の動き
6.太陽の動き
7.月の動き
8.「橙色の星」の動き

どうやら、長い道のりになりそうだった。
翌日から、バイトの合間を縫って、少しずつ、考えを搾り出すようにして、ノートの続きのページを埋めていく作業を始めていった。


+ + +

こんなふうに天体に関する小学生並の試みをひそかに進めながら、一方では空の観察記録も続けていた。

5:20 1014hPa 晴 静かな朝焼け
南 3~5m/s 視程 神
上 Ci 南北の筋状雲、綿雲
北東に一部不規則な向きの鈎状雲
下 Sc 平地に一面の雲海

何日も続けていると次第に記録のつけ方にもなれ、また一日の空の表情の移り変わりの傾向も段々とわかるようになってきた。

例えば風の吹き方は時間帯によって大まかな規則性があるようだ。頂上直下の南側の斜面に位置するこの小屋では、晴れた日の明け方と夜に強い南風が山を吹き降ろし、昼は反対に頂上に向かって北からの風が吹く。
また、雲海の厚さは日によって違うが、明け方に一番濃く見え、日が差してくるにつれ少しずつ消えてゆき、昼ごろにはほとんど残らず消える。代わりに昼ごろから山の斜面に沿って白い綿のようなガスが湧き出してくる。
それから、上層の雲は高くにあるためゆっくり動いているように見えるが、実は20~30m/sの速さで動いていることがわかった。おおむね西から東に向けて流れることが多いが、北東に向けて流れる日もあり、その日は地上の風は北西から吹き冷え込んだ日となった。

登山や航海で、雲や風の様子から今後の天気を予想することは、観天望気とよばれ、大切な技術として昔から行われてきた。天気予報がつくられるずっと前の時代から、自然の中で仕事をして暮らす人たちは、長年の経験に基づいた感覚があった。その一部は諺として現代でも残っていて、逆に現代の気象学からの検証もされるようになっている。

天気予報の歴史は浅い。天気の移り変わりを神話や儀式によらずに定量的に分析し予想する試みは、1643年トリチェリーによる気圧計の発明によって始まった。それから温度計、湿度計、風速計なども用いられ、最初はおもに航海のための暴風の予想を目的として局地的な気象観測がされるようになった。しかし、天気予報のためには遠くの土地の情報が分からなければできないし、また予報を出してもそれを素早く伝える方法がなければ意味がない。広い範囲の天気図が作れるようになったのは、19世紀中頃、モールス電信機が発明された後のことだった。
天気図を使って天気予報が行われる時代になっても、初期のそれはいわば職人芸だった。低気圧や高気圧の位置と勢力は、当日までの過去の動きと照らし合わせながら、発展途上の理論と予報官の経験によって微妙な違いを調整していた。
精密な計算に基づいた予報にはデータが不足していたし、何より膨大な計算を手作業で行うのはほとんど不可能で、ナンセンスだと思われていた。1922年にリチャードソンという有名な学者が実際やってみた例はあったものの、見当違いの結果しか出ずに無駄な努力に終わっていた。
それを可能にしたのが、1949年のスーパーコンピュータの発明だった。ほどなくしてコンピュータを使った数値予報も実用化され、計算能力の飛躍的な進歩に合わせて、天気予報の精度も上がっていった。そして今では民間の企業がネットでの気象情報の配信を行っており、いつでも最新の情報を簡単に見られる時代になった。

仙丈小屋でもテレビで地デジが見られ、データ放送で気象情報を見ることができるようになった。支配人はたまに、登山者を相手に天気について講釈することもあった。配信された天気図を見ながら、
「ほらここに高気圧が張り出しているでしょう、風はこういうふうに吹いてくるから、だから明日も天気は期待できないんですよ。こういうことが大事なんですね。天気予報を見るだけでなくてこの図を見て分からなきゃ本当はいけない。」
「山の天気は分かりませんからね。伊那では晴れといっていてもここでは降ることもありますから。」

当初僕は、支配人に尋ねてみれば、長年山で培ってきた観天望気を自慢して語ってくれるだろうかと思っていた。でもここでは、支配人は空よりもむしろテレビの方を見ているような気がした。技術が進歩するのと同時に、人の知識のあり方も変わったのだ。
でもきっと口調は変わっていないのだろう。数年前には「ほらこんな風に西から雲が張り出してきてるでしょう。こういうのを見るのが大事なんですよ」とか言っていたに違いない。
それも悪くないのかな、と思った。


11:20 晴 1014hPa 15℃
南 3~5m/s

上 Ci 北西方向の筋状雲 不規則な鈎状雲なども
Cc Ciの一部から成長か 波状の列
下 Sc 一部に残存 伊那谷では消える
Cu 山脈に沿ってまばら 雲頂約2500m

















南から湿り気の多い風が吹き込んできた。上層の雲は不規則な流れを表す鈎状雲が現れ、一部は波状となるものもあり、全体的に雲の量も増えた。天気が下り坂に向かう兆しだ。
午後からはガスが登ってきて霧で視界が覆われた。普段は夕方ごろにはガスが晴れきれいな夕焼けとなるが、この日は晴れることなく、夜になって細かい雨が降り始めた。

南の海上に台風15号が近づいてきて、本州に強い雨を降らせようとしていた。紀伊半島ではまた、大雨で被害の恐れが伝えられていた。
2週間前、9月の始めごろも、台風12号の大雨が降った。山地でのがけ崩れや川の増水で熊野古道を含む多くの山間部の道が寸断され、いくつかの集落は数日間孤立状態になっていたとテレビのニュースが報じていた。そこには、どこかで見たことのある景色が映っていた。

(続く)