3.赤橙(後半)


 大学に入って一年目の夏休みに、農家にバイトに行った。
 住み込みで、時給換算すると300円だった。今ならもうちょっと冷静に割のいいのを探すが、当時は何も知らなかったから、最初に見つけたものに飛びついた。とにかく農業の仕事をしてみたかったのだ。
 栃木のイチゴ農家で3週間働いた。収穫は冬なのでイチゴの姿は見られず、植え替えと農薬などの細かい作業をする日々だった。一緒に働いたのは中年の女性と30代の男性の従業員、それに近所のパートのおばさん達だった。途中から年上の大学生の女性がバイトで来て、僕は坊主にしてきたことを悔やみながらたまに大学やテレビの話をしたりして過ごした。驚いたのは、同い年くらいの中国人が5〜6人いたことだった。彼女らは中国語でいつも何か話し合っていた。僕が習ったばかりの中国語でちょっと挨拶すると、驚いた顔をしていた。僕のようなバイトに比べて彼らは朝早くから働いた。後で知る事になるが、こうしたアジアからの農業研修生を受け入れている農家は日本に少なくなく、研修という名目で実際は労働力の足しにしている場合も少なくないそうだ。大学のぬるい生活に4ヶ月で飽きて農家に来て、全く違う日々の生き方をしている同い年の若者に初めて会った。大学生とは違う。とはいえ都会で生活するフリーターとも違う。働いて、食べて、寝るという日々にわずかな間ながら浸ってみた初めての経験だった。ミスチルの「彩り」をよく聴いていた。

 そんなことを合宿やコンパの代わりに一年生の夏にしていたことが、自分の人生の方向を決めたように思う。広い世界には様々な人の生き方や価値観がある。それは遠くへ探しに行かなくても、自分の生活の心地よさから少し外れてみれば身近にだってすぐに見つかる。学問から人間の福祉につながる何かを得ようとするならば、様々な世界でそれぞれの生活をするすべての人に届きうるものでなければならないはずだ。漠然とそう思い始めた。

 けれどもそんな興味に応えてくれる勉強はなかなか見つからず、僕は大学の中で道を見失ってなにをしたらいいかわからなくなった。逃げるようにして肉体労働のバイトに時間を捧げ、アジアに向かったりしていた。今思えば迷わず休学すべきだった。学費を払って大学に行っていることの意味がわかっていなかったのだから。


 そんな時期に縁あって山奥の農村を訪ねる機会があった。紀伊半島の山村で、百姓暮らしをしている遠い先輩を訪ねて行った。人口の半数以上が65歳以上のいわゆる限界集落だった。そこは農業というより百姓というべき暮らしが残っている、というか意識的に残そうとしている場所だった。そこで僕は手作業で稲を刈るのを手伝わせてもらったり、卵を産まなくなった廃鶏をしめて肉にして夕食に頂いたりした。都会育ちの僕には初めての日本の原風景だった。けれど懐かしいような気もした。神道の聖地の近くだからなのか、そこに滞在した数日間、一度も寂しさを感じなかったように思う。


 限界集落の未来について考えるべきことは多い。実際に取り組みだしている同期もいる。けれどそのとき僕の考えたのは、もっと別のことだった。
 なぜ僕は百姓ではなく、僕の家も百姓ではないのか?
 なぜ日本人全体として、百姓でない生き方へと進んできたのか?
 
 百姓の生活から人間が離れて行ってしまうのは人間を不安定にしているのだろうか。土を離れるということは伝統や先祖との繋がりを離れる事であり、自分の存在の意義を保証してくれる暖かさから離れる事だ。僕は東京で生まれ育ったということで、自分が何にも根を下ろしてないような感覚に囚われることが時々あった。
 だからIターンという生き方をする人の気持ちは分かる。もしかしたらそれも今の社会に必要な動きかもしれない。
 
 けれども。
 もしも自分があの村で生まれ育っていたとしても、大学に行くために東京に出ていたように思う。
 
 人間の進む道には、相反する二つの方向があるのだろうか。土とともに生きる道と、土を忘れて、それと引きかえに空の向こうを目指す道。
 それらは本当に両立しないのだろうか。


 

 さて仙丈ケ岳での日々に話は戻る。
 惑星の運動を自分の手で再構築する、という目標を立ててはみたものの、日々それに使える時間はわずかだった。夜や早朝や、仕事の合間に少しずつ時間をとって進めた。
 4時ごろに小屋の外に出て、小屋の影で風を避けて、目に見える星と、月の満ち欠けを一つ一つスケッチ帳に書き写す。
 最初のころ使っていた星座盤は、もう使わないことにした。自分の手で記録して順番に覚えていこうと思った。なぜなら目的は、星空の並びを覚えることではなくて、自分の感受性を使う訓練をすることだったからだ。星座の名前を知らなくてもいい。大学では系外惑星の存在まで教わってきたけどそういうのは一度全部知らなかったことにしていいから、自分で見たものだけで自分の知識を作り直そうと思った。
 子供のようになりたかった。
 小さい頃、自転車で近所の道を走り回った。田んぼの真ん中の細い道や、塀の崩れた路地裏の道。地図には載ってない、自分たちだけが知っている道がたくさんあった。そんなふうにこの星空も自由に心で走り回ることができたなら、覚えこんだ知識よりもずっとたくさんのことを本当に知ることができる。秘密の抜け道も見つけられるかもしれない。

 東の空にはオリオン座が上ってきた。その左上の双子の星を結んだ線を延ばしていくと、あの橙色の星が見つかった。

 どこへ行くのだろう?
 前に見たときとは明らかに違うところにある。左下に向かって、毎日わずかずつ進んでいるのだ。周りの星はずっと同じところにあって星座の一角におさまっているのに、そこからひとり外れてまるで旅人のように虚空を漂っている。
 
 ここで定量的な観測の必要性が生まれた。まだ僕が知っているのは、その赤橙の星がそこに在るということと、ある方向に動いていることだけだ。でもそれは情報の一部でしかない。星がどんな軌道をとり、どんな力がそれをもたらしているかについて考えるためには、その位置と動きを計算できる形で測らなければならない。次に知るべきなのは、そのための道具と方法だ。

 考えてみれば意外とそれは難しいことが分かった。定規を当てることはできないし、方眼紙をかぶせることもできない。分度器を目線に合わせれば大体の角度が分かりそうだが、目との間の微妙な隙間の違いで結構ずれてしまう。
 つまり測器を自分で作るしかなさそうだ。といってもここは山小屋。材料も工具も限られている。特別なものを使わずにできるだけ正確な位置を測るには、どんな工夫をすればいいだろう。それから数日間は、あれこれと悩んでいた。

 山小屋での生活は淡々と続いていた。

 「お前悪いけど、今日もポンプ下まで運んでおいてください」

 昼に支配人に指示された。お前といっておきながら語尾に「下さい」をつけるのが支配人の口癖のようだ。
 約20kgの小型のポンプを、小屋の前を流れる沢筋に沿って少し降りたところの取水所まで持っていく。そこには伏流水が湧き出していて、ホースをつないだポンプで水をくみ上げて、小屋の貯水タンクにためる作業を時々している。少しの間だけど小屋の外に出て、北側の開けた景色を見ながら歩いてゆける、僕の好きな仕事のひとつだった。
 山小屋において水の確保は最も重要な課題のひとつだ。沢がすぐそばにあるような小屋でなければ、たいていの場合水は貴重品で、自由に使うわけにはいかない。槍ヶ岳では水はすべて雨水からとり、そのための大きな浄水設備が用意されていた。トイレは水を使わない微生物処理が採用されていた。仙丈小屋では沢が比較的近くにあるため、取水用のホースを藪の中に伸ばし、時々沢からくみ上げてくる水を雨水と併せて使っていた。
 シャワー設備はあるがほとんど使うことはできなかった。バイトは時々、忙しくない平日に休みを貰って麓の宿まで風呂に入りに行くことを許されることができた。
 
 台風の近づいた9月中頃の日曜日、
 「お前、月曜から金曜まで休暇にしてください」と突然言われた。平日の間は天気も悪く、客は入らないことが明らかだった。小屋に来てから約10日経って、そろそろ僕の髪もサイヤ人状態だった。10日よりずっと長い時間が経っていたような気がしながら、もと来た道を降りて、東京に戻った。測器を作るための買い物を考えながらバスにのって帰った。

 東京では防寒具やサンダル、数冊の本、ポータブルラジカセなどを買った。新宿で高速バスに乗る直前に、新宿の東急ハンズに行って、測器に使えそうな材料を買っていった。分度器と水準器、それにいくつかの木材と金具。設計図は頭の中にはできているが、細かいところは作ってみなければ全然わからなかった。

 
 翌日の入山のため、木曜日に再びバスで戻ってきた。登山口の宿泊施設まで、伊那からは路線バスを乗り継いでいく。途中、乗り継ぎのために高遠という城下町でバスを降りた。夕暮れの時間だった。
 高遠は桜の名所として知られる山あいの小さな城下町だ。昔ながらの街道と建物の雰囲気が残っている。秋祭りなのだろう、お囃子と掛け声が聞こえてきた。街道には赤橙色の提灯が暖かく光っていた。
 高校の前のバス停で、地元の高校生が制服姿で乗り込んできた。手を振って仲間と別れ、また明日、と声をかけ合った。

 本当はそんな日々が、どんな大きな冒険にも負けないくらい人間を輝かせることを、知らないわけではないんだ。



 
 
 街の中心を過ぎて家並みはまばらになった。祭りのぼんぼりの赤橙色が日の暮れた街に揺れていた。それは街灯とも違う、山の中のヘッドランプとも違う、柔らかい光だった。
 狭い盆地の中で、身を寄せ合うようにして集落を作り暮らしてきた人たちの、生活の暖かさの灯りだった。
 バスは山へと続く道に入り、灯は次第に減り、やがて見えなくなった。

 僕は毎日見つめていたあの赤橙色の星の光を思った。そしてさっきまで見ていた提灯の光を思った。
  
 僕には故郷という意識が薄い。こんなふうな秋祭りの記憶はない。
 そして僕はこれからまた山小屋で働くために人里から遠ざかっていこうとしている。

 地上の星がこんなにそばにあるのに、どうして天上の星ばかり追いかけようとするのだろう。
 そんな歌があったことを思った。
 
 でもこうしてぐるぐると悩んでいる間にも、あの星は確かに動いているんだ。人間が何を迷っていようと、自然は知らん顔して秩序に従った運行を続けるだろう。
 

 

 台風の日に僕が東京で銭湯に行っている間、仙丈小屋では客は来ず、バイト達は自由に過ごしていたそうだ。
 「俺ら、天然シャワー浴びてましたよ」
 岡ともう一人のバイトの大学生の男は、大雨の中、服を脱いで外を走り回っていたそうだ。
 「誰も来ないし。山で裸になるのはマジ気持ちいっす」
 なるほど、確かに気持ちはよく分かる。
 

 数日後、昼間に客が少なく、仕事も特にない日があった。支配人は横になって休んでいた。いい機会だと思って工具を使わせてくれるよう頼んだ。
支配人は特に興味なさそうに、自由に使っていいぞ、と許してくれた。ただし電動工具は指切るからよせ、と言われた。
 天気のよい日だったので、小屋の前で作業をした。
 
 天体の位置は高度角と方位角の二つの角度で表現できる。それを測るための器具を作ることを目指した。(ちなみにこれは測量の分野でセオドライトと呼ばれる道具にあたり、現在は電子的な精密なものが実用化されている。)
 仕組みはいたって簡単で、板を直角に張り合わせて、縦に可動の腕つきの分度器を固定する。腕を回転させて目標物を指すようにしたときの角度を読んで、高度角とする。台には小さな気泡の入った水準器を貼り、方位角を測るため磁針を置くための基準線をつける。

 単純な工作だが、それでもいくつかの失敗をした。まず木材が硬すぎた。サクラの薄い板を使ったら釘を打ったところからひび割れてしまい、代わりにボンドで接着した。また完全な直角を作り、それを維持するのは意外と大変だった。そして致命的なのは、方位磁針が働かないことだった。ステンレス製の分度器が強い磁化を持っていたため、器具に取り付けたまま磁針を置くと正しい方位を指さないのだ。

 こんなに簡単に思えるものを作るのも上手くいかないものなのかと落ち込んだ。自分の手でものを作るということを、どれだけしてこなかったことか。基礎実験やら何やらで、あれだけ精密な(そして高価な)機材を使わせてもらいながら、その100分の1にも満たない精度の観測すら、自分の手ではできないでいたのだ。

 作り直そうにも道具も材料も限られているので、次善の策をとった。台の下にもう一枚の板を位置を合わせて敷いて、目標物に向きを合わせた後に上の台を取り除いて、下の板に方位磁針を載せて板の方位を測ることにした。これなら分度器の磁化の影響を避けることができる。しかし、精度は2~3°くらいに過ぎなかった。正確な軌道を求めるべくもないが、とりあえずこの測器を翌日から使い始めた。

 
 
 翌日から朝の夜明け前の時間に測り始めた。バイトの早番はたいてい4時半か5時、遅番は5時半から仕事なので、毎日3時に起きた。夜早く寝るので早起きは特に難しくなかった。
 最初に北極星を測った。北極星は、天球を回している軸のほぼ真上に位置する。つまり北極星の真下には地球の北極があり、丸い地球の上の北半球の一点から見た北極星の高度は、その点の北緯を示している。
 僕の原始的な測器で高度角を測ると、38度となった。こんな程度でも、とにかく意味がある数字が出たことに僕は嬉しく思った。まるで初めて自転車に乗れたときみたいに。
 翌日から毎日、晴れた日は夜明け前に外に出て、赤橙色の星と月の位置を測ることにした。

 さて測った位置から今度は軌道を求めるためには今度は計算が必要となる。星は北極星を中心に毎日一回転とちょっとずつ回っているし、東京で見た星と仙丈ケ岳で見た星の位置は微妙に違う。その違いを考えて、天球上の座標に直すための計算を求めなければならない。
 計算の方法をまとめるのに数日かかった。三角関数とその逆をつかう面倒なものだった。計算機を使わずに仕事の合間にそれを行うのは大変な作業だった。

 10月に入ると客の入りも少なくなり、平日は2~3人という日もあった。昼ごろまでは本当に仕事がなく、フロントで電話番をしながら考え事をしたり空の記録をとったりしていた。
 この時期になると予約の電話だけでなく山の天気や道の状態について尋ねる電話も多くなった。特にみんな紅葉について聞きたがった。仙丈ケ岳の周辺はガイドブックには美しい紅葉の写真とともに紹介されている。でも今年は絵葉書のような紅葉は残念ながら見られなかった。台風でほとんど散ってしまったようだった。
また何度も聞かれたのが積雪についてだった。週末ごろにそちらに行きますが、雪はどうでしょうか、道に積もってませんかとよく聞かれた。目の前の道には雪など一片もなかった。初雪は例年10月下旬なのだ。山に暮らしていると当たり前に思えることだが、街に住む人にとっては必ずしもそうではなかった。

 雪は降らないまでも朝晩の冷え込みは厳しくなり、ある日起きて厨房に行くと水が止まっていた。外のタンクからの水道管が凍り付いていたので、お湯をかけて溶かし、午前中ずっと使って水道管に毛布を巻く作業をした。
 
 翌日は冷たい雨が一日中降っていた。午前中を気ままに過ごし、午後にわずかながら客がやってきた。この日は単独で来た若い男性と、家族連れ3人のみだった。普段は中高年がほとんどなので、若者が一人で来るのは珍しかった。
 普段は従業員の夕食は客の食事を全部片付けた後に管理人室で食べるが、客が少なく支配人の調子のよいときは食堂で客と一緒に飲み交わしながら食べることもあった。この日の支配人はよく酒を飲んでよく喋った。この小屋は小屋番と客とが親しく話す機会が多く、それを目当てに来る常連客も少なくないようだ。
「だからよ、引き継ぎというのは簡単じゃねえんだ」支配人はしみじみと言った。
「ただ仕事だけ引き継げばいいわけじゃねえんだ。人と客との人間関係があるんだ。それは何年もかけて受け継いでいくもんだ」

 僕は世代の近い単独行の若者と話をした。彼はなんと屋久島から来たという。普段はガイドの仕事をしていて、東京に用事で来たついでに本州の山を歩きに来たそうだ。

 屋久島には2年ほど前にサークルの仲間と一緒に一度行ったことがある。春休みで、観光客が多かった。レンタカーで島を一周して、温泉に入って、キャンプをして、縄文杉を見に行った。よくある観光だった。
 色々見て楽しかったが、少し寂しさを感じた。本当にそれは屋久島である必要があったのか? 
 メンバーのほとんどが理系の学生だったのに、千年以上生きているという驚きについて語ることはなかった。森の生態系についても。星空についても。僕らはガイドブックに書いてある以上のものは見えていなかった。登山を覚えて、自然に対する感受性を意識し直そうとしている今、もう一度行ってみたら、どんな風に見えるだろうかと思った。

 ガイドの若者は薪ストーブにあたりながら、屋久島の自然や、人々の生活や、ガイドの仕事の奥深さについて話してくれた。もののけ姫の話もした。屋久島の森が映画の中の森のモデルになったという話が知られているけれど、実際は中国地方の製鉄所のある海沿いの町が物語の舞台のようだ。現在では森が変わってしまい、古代のままの照葉樹林の風景はそこには見ることができなかったために代わりに屋久島の風景を使った、という裏話があるそうだ。

 翌日の午前中には雨が上がり、客たちは満足そうに出発して行った。屋久島の彼には名刺をもらった。人が少ないのでベランダに出て見送った。

 10月に入っても測定はほぼ毎日続けていた。精度が粗くてもどかしかった。原因は二つあった。ひとつは方位角が合わせられないこと。磁針を置くより最初に北極星の方向に合わせて基準として、方位角方向にも分度器を使ったほうがいいのは明らかだった。
 もうひとつの原因は台を水平に保つのが難しいことだった。机の傾斜があって水平からずれてしまう。台の四隅に微調整用のネジをつければ解決するが、そのための工作がなかなかできなかった。電動工具を使えば数十秒でできる作業だが、だめと言われている。夜にこっそり持ち出してやろうと試みたが、音が大きすぎてばれる恐れがあってやめた。
 なかなか進歩がないまま日々が過ぎて、10月の中旬になった。


 その日はフロントで電話番をしながら、雲の記録をとっていた。気象記録はスケッチブックを一冊埋め尽くすくらいになっていた。特に面白かったのは波状雲だった。天気が良いときの雲はたいてい薄い毛状や筋状の雲が高くにあるだけだが、天気が悪くなるとき、あるいは回復するときの雲はたくさんの表情を見せる。羊の群れのような雲が見られるときは前線の通過するときだ。それから、北の空には鳥のような同じ形の雲が東西にいくつも並んで見えるときがある。
 
 
 どこかでそれは山岳波だと習った。大気中の波が雲になって現れたのだと説明されたが、それだけでは単純すぎる。水蒸気が同じように供給されているのだとしたら、どうして波が連続的にできるのではなく、決まった高さに、決まった間隔を保ってできて、一度できた雲が消えないのだろうか。雲の形は山脈の形をなぞっているのだろうか。教わらなかった部分について考えていた。そんなときに声をかけられた。
 支配人に呼ばれてベランダに行くと、突然に、下山を告げられた。
 「悪いけど、明日かあさってに下山してくれないか。客は減ってきて、小屋閉めまで人数は足りそうなんだ」

 こうして10月末の小屋閉めまでの予定だったのが、13日で降りることになってしまった。確かに仕事の少ない日が続いていたし、ある程度予想はしていたので驚かなかった。ただ事実上、バイトのうち誰を残すか、誰を降ろすかという話になったとき、僕が最初に切られる立場にあったようだ。

 槍ヶ岳山荘では初めての小屋バイトだから、と身構えていたら卑屈になりすぎていたので、仙丈小屋ではあえて堂々と振舞ってみた。厨房での仕事のときも余裕を持った態度でいようと心がけた。けれどそれが逆に支配人にはあまりいい印象ではなかったようだった。


 夜にバイト部屋で皆に話した。既に支配人のほうから話はしてあるようだった。後藤さんは同情してくれた。岡はここにきて初めて、連絡先を交換しようと言い出してくれた。「すいません、一足先に下界を満喫してきます」と僕は笑って言った。


 13日の朝食後に降りた。
 その前に、早朝にまだ暗いうちに出て、登りに行った。
 頂上まではわずか15分。満月に近い月が登山道を照らしていた。
 頂上からは、小屋から見えない南側や東側の山々がよく見えた。東には白鳳三山とその奥に富士山。南には塩見岳から聖岳など、南アルプスの奥深さが分かる重々しい景色だった。

 約1ヶ月の間働いた小屋が、足元のカールの根元に小さく建っていた。窓の明かりの向こうでは、今も早番の岡が朝食の仕込をしているはずだ。

 曇り空の向こうに朝日が昇ろうとしていた。空は橙色に染まり始めていた。
 振り向くと円い月が西の空低く浮かんでいた。青白く冷たく光っていた。ちょうど境目に僕はいるんだ、と思った。


 小屋に戻って客の朝食の片づけをして、朝食後、荷物をまとめて出発した。
 支配人は、けえるのか、と言い、ありがとな、まあ頑張れやと短い言葉を交わして、振り返りもせず小屋に入っていった。
 いつもは小屋内の掃除をしている時間だった。後藤さんは箒を持ってベランダに出ていた。2階で布団を畳んでいる岡は窓から顔を出して手を振っていた。




 登山道を降りて、一人になって、やれやれと息をついた。天気は良かった。八ヶ岳の右側は雲海が広がり、左側はもやがかかっていた。

 バス停のある大平山荘に着いて、少し休憩した。山荘のおばさんとおじさんが迎えてくれた。客も来ない時間帯なので、お茶を出して少しくつろがせてくれた。小屋番の人柄の良さでは評判の小屋だ、と後藤さんから聞いていたが、本当のようだった。バスの時間までそこでまったりと過ごした。


 下山して一番最初にしたいことは何よりも風呂だった。甲府方面のバスに乗って、芦安という集落の温泉で途中下車した。老人ホームの隣に立っている施設だったので、この平日の昼間に入っているのはお年寄りばかりだった。その中を大荷物をしょって山の格好で乗り込んだ。風呂に入って、地元のおじいさんと少し話して、一心地ついた。
 帰りのバスに乗るには長く待たねばならなかった。通過する急行に乗せてもらおうと手を上げてみたが、無常にもジェスチャーで断られた。やれやれ、一時間待ちか、と戻ろうとしたら、後ろから来た乗用車が止まった。中年の女性が運転席から顔を出して、乗っていきなさいと言った。僕はザックをねじ込むようにして助手席に座った。

 こんな土で汚れててかさばるザックを担いだ人を乗せてくれるなんて、と僕が礼を言うと、その人は慣れた調子で言った。
「主人が、山小屋の小屋番なんです」

 それから山の話をしたり、芦安の小さな村での暮らしが結構大変なことを話したりしながら、JRの駅まで乗せてもらった。
 一人で旅をしていると、後になって思い出すのは、旅の目的地ではなくて、こういう途中の偶然の出来事だったりする。



 東京行きの電車に乗って、これからの生活を考えた。予定はまだ何も立てていなかった。いずれまたどこかへ行くだろう。でもその前に、数週間は東京で過ごす時間が必要だ。仙丈ケ岳でやった色々なことが、中途半端で残っている。まずはそれをまとめて、形にすることが必要だ。それから、読みたい本もたくさんあった。

 本当の勉強をしなければなあ、と思った。
 でもそれは何なのだろう。
 分からないけれど、それを探りつづけないとなあ、と思った。



 上野駅に着くと8時を過ぎていた。山小屋では寝る準備を始めている頃だ。
 霧雨が降っていた。
 歩道橋から東の空を見上げると、今朝山頂で見たのと同じ月が弱々しく光っていた。


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