4.自由と哲学


先日、バイトの昼休みに食事のあとビルの壁を背にして読書していたら、同じバイトの男が話しかけてきた。

「お、また何か読んでる。この間とは別の本?」
「入門書です。キルケゴールという哲学者の。」

「ああ、何か聞いたことある、ドイツ人だよね?」
「…デンマーク人ですよ」

「そんで、どんな本書いてる人なの?…『死に至る病』って変なタイトルだよね。病になったら死ぬの当たり前じゃん」

思想でも内容でもなく、なぜそこへ行く?

そして僕から本を受け取ってパラパラとめくって、「目次だけ見た限りでは、この本面白くないよ。」とか言い出した。変な奴だ。

とはいえビルメンテナンスのバイトの昼休みに作業服で哲学書を読んでる僕も、傍目からみたら人のことは言えないのだろうな。



11月はだいたい、平日は図書館でマイペースに勉強、休日はバイトと、自宅浪人生のような生活をしていた。

山小屋で働いた日数が予定より短かったため、東京にいる間にできるだけバイトをして貯金を作っておかねばならなかった。

大学に行かない代わりに平日の時間を使って、自分の望むままに自由な勉強ができる。それは途方もなく自由で、そして不安だった。



自分がしていることに何の意味があるか、何の価値があるか。それを保証してくれるものは、何もない。

評価基準は誰も与えてはくれない。締め切りも成績もない。だから、日々の意味も価値も、自分で作って自分で信じるしかないのだ。


大学に通っている間はそこのところをごまかしていられた。

レポートの提出のため、単位のため、卒業のため、と。

忙しい、忙しいと言いながら、僕らは実は安心していた。なぜならそう言っている間は、自分が何をすべきかが明らかだからだ。そうすれば自分の存在の不安とか哲学的悩みとかは持たなくていい。代わりに一夜漬けのレポートを終わらせるために集中すればいいだけだ。


けれどそれを一度離れてみると日々はあまりにも掴みどころがなくて、そして自由だった。

この自由から逃げだしてはいけない。



物事を自分の頭でとことん考えるための訓練として、哲学からはじめてみようと思った。


まず最初に、仙丈小屋で月を見ながら感じていたことを思い返してみた。

稜線の上に満月が浮かんで輝いている。まるでこの世のものではないみたいに。
でもあれは確かにこの世のものだと僕たちは信じている。東京から線路をずっとずっとたどっていけばいつか遠い故郷の町まで戻れるのと同じように、僕の指先にある空間を延長していくとその先には月が空間を占めて確かに存在している。

どうして僕らはそう信じていられるのだろう。あの月が足元の石と同じように大きさのある物体だということは決して自明ではない。神様が空中に、もしくは心に投影した幻の像だと信じてもおかしくないのではないか。

外的な世界が幻ではなくて実際に存在すると考えることにしよう、と最初に決めた人がいるに違いない。
それは誰だろうと考えたところ、「デカルト空間」とかいう言葉もあるし、なんとなくデカルトが関係ありそうに思えたので「方法序説」や二三の主な著書を読んでみた。

彼の空間論は我々のものとは多少違っている(真空の否定など)が、簡潔で厳密な力学モデルの構築には大きな貢献をしていることはわかった。それと同時に、デカルト以前と以後の色んな哲学者が考えたアイデアを含めて、全体の流れを知りたいと思った。


そこで今度は、「ソフィーの世界」の英語版を図書館で借りてきた。
バイトの合間や立山でのテントの中などで読み、ギリシャ文明から現代に至るまでの哲学の流れをざっと把握することを目指した。


そうして大まかではあるが西洋に今まで存在した哲学思想を網羅してみると、その中で一番共感できそうに思えたのが、19世紀後半から出現した実存哲学だった。
そこでキルケゴールに始まり「神は死んでいる」のニーチェなど実存主義者の哲学を試しにいくつか読んでみることにした。



そんな感じで本を読んでばかりの日々だったが、考えたりしたことを文章にする訓練はなかなかできなかった。だからこんなとりとめのないことを山に行く直前に書くだけになってしまった。自分の思うように生活を作っていくことができずもどかしい。


そうこうするうちに、次の山小屋から返事が来て、12月から働くことになった。また山での生活が始まる。それも今度はひと冬にわたって過ごすことになる。


言語化した概念ばかりの世界にしばらく浸っていたが、これからまた、身体的な五感の世界に出ていく。


橙色の惑星は、まだ追い続けている。

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