1.深山大学


 グランドキャニオン、デスバレー、ヨセミテ…。アメリカ西部の国立公園は現在厳しく管理され、世界的価値のある自然が守られている。
 それら国立公園の設立に深く関わり、のちに自然保護の父と呼ばれた、ジョン・ミュアという人物がいる。
 彼は優れた発明の才能を持ちながら、州立大学を3年生で中退し、アメリカやカナダの荒野で働きながら旅する生活を始めた。(兵役拒否のためという事情もあったが。)

 彼は手紙にこんなことを書いたという。
 私は大学を辞めましたが、それは学ぶ場所を変えたというだけのことです。
 ウィスコンシン大学から、ワイルダネス大学へと…。


-2011年8月22 日-
 一ヶ月ぶりの東京は、雨に煙っていた。
 都会の明かりで夜空はうす赤く、不穏な色をしている。井上靖の小説「氷壁」の冒頭では、北アルプスから帰ってきた主人公の青年が「赤くただれた空」とうんざりしながら表現したが、僕にとってはこんな空はかえって良かった。一時下山して東京に戻ってくるのがこんな日で良かった。その方が、決意を新たにできると思った。
 これから、大学を休学するつもりだった。

 7月の終わりから約一ヶ月の間、山で生活していた。北アルプスの槍ヶ岳の小屋でのアルバイト。標高3080mで朝4時から食事の準備をしたり、布団を干したりするような仕事だ。休憩時間にはちょっと隣の山まで尾根を散歩したり、頂上に登ったりする。そんな生活を毎日続けていた。
 上高地からのバスを降りたら、新宿駅前の喧噪にいきなり放り出された。まるで全然違う国に迷い込んだようだった。大量の車、車、車、そして人。巻き込まれそうで恐ろしかった。今日の朝はまだ槍沢沿いの樹林帯を歩いていたのに、今はアスファルトの上を登山靴で歩いている。何か体の一部が失われてしまったかのような違和感を感じた。大きな交差点の向こうには自販機が6台並んでいて、その上には丸い地球の写真と「限りある地球資源を大切に」と場違いなスローガンが書かれていた。
 人混みにまぎれて地下鉄に乗って、墨田区のアパートに帰った。郵便受けには受験票が入っていた。

-2011年8月23日-
 翌日、荷造りをして午前8時にアパートを出た。休暇は3日間だから、今日の夜にはまた上高地行きの夜行バスに乗らねばならない。ザックに山小屋での荷物を詰めて、一番上に受験票を入れた。その格好で大学へと歩いた。
 上野の不忍池のそばまできてザックを下ろして、ベンチに座って息をついた。ちょうど9時ごろだった。昨日届いた受験者心得によれば、9時50分までには試験場に入らなければならない。

 このままここに居るだけでいい。
 指定席を取っていた快速列車が、目の前に滑り込んでくる。
 みんな列を作って、足並みを揃えて乗り込んで行く。

 僕は乗らない。
 目を閉じて、今までの事を考えた。


-2011年5月-

 世界中のすべての場所を探検しつくして、大きな地図を作ろう。あらゆる山と海とを知り尽くして、あらゆる風や雲や雨の状態をいつでも手元に把握し尽くして、描いてみせることができるなら、どんなに気持ちのいいことだろう。
 それはまるで、神様の目で世界を眺めているみたいだ。

 数百年前の船乗りの少年は、きっとそんなことを夢見ていたのではなかろうか。
 今の僕たちが、日々当たり前に手にしているそれを。

 五月祭に向けて、学科の仲間達と自主研究をしていた。テーマは異常気象。世界で起きる異常気象を大気大循環の変化から説明する事を目指す。
 毎日、コンピュータでプログラムを動かして、境界条件を変えた時に気候がどのように応答するかの計算結果を眺めていた。プログラムでは地球上の大気を十数層に分けて、経緯度ごとに小さな四辺形に区切って、それぞれの領域ごとの風や温度、降水等を計算する。そうして出てきた結果は一日ごとに世界地図の上に出力される。細かい設定は異なるが、毎日の天気予報のための計算と基本的には同じ事をしている。
 僕たちはそれを、感度実験と呼んでいた。いわばコンピュータの中に仮想的な地球を作って、望み通りに自由に操作する。まるで試験管の中の試薬を混合するかのように、温度を上下させたり、時間を進めたり戻したりして、自分たちの作った地球がどのように振る舞うのかを観察する。

 その日も一日の作業を終えて、自転車でアパートに帰るところだった。途中でコンビニに寄って、いつものように立ち読みをする。特に読みたい本があるわけでも、楽しいわけでもない。ただ、ぼんやりとしていた。

 毎日感動がなくなっていくことを、どうすることもできなかった。
 僕らのやっている最先端の科学は、どれだけ楽しく、希望に満ちたものなのだろう。毎日の空の移り変わり、また暑い夏があったり、寒い夏が来たり、神様の気分次第でしかないと今まで思っていた気候の変化を、今やこうして徹底した論理と技術によって人間の把握する事となろうとしている。
 この無形の宝物を、数百年前の船乗りの少年に手渡したらどんなに喜ぶことだろう。いや、そんな想像の相手をつくりあげるまでもない。僕はすでに会っているではないか。ベトナムの棚田で働いている子供達。日本の片隅の農場で研修生の名目で中国から出稼ぎに来ている少女達。それに、アフリカで教師をしているあの先輩のことも僕はよく知っている。
 教育や学問が行き届くのが当たり前ではないところに暮らす人々の方が、世界では圧倒的に多い。そして、そういう人々こそ、天気図や熱力学を知る事はない代わりに、嵐がきたり日照りが続いたりしたときに、都会に暮らす自分には想像もできないほどに、生活が左右されてしまうのだろう。
 去年の夏の猛暑の原因が研究テーマだった。世界各地の異常気象はどうして発生したのかということが出発点だった。けれど、自分でしゃべっていてどうしても嘘くさい感じがした。恐ろしい異常気象。本当にそう思っているのか?
 こんな甘いものではないように思えた。快適な教室の中で、一流の教官の指導と豊富な資料のもとで、まるで食事のメニューのように用意された中から選ぶようなものでは、決してないはずだ。そうではなくて、涙を流して、歯を食いしばって、何故なんだ!と叫びだすような切望ではなかったか。学問を推進させるものは。

「これからの本当の勉強はねえ
 テニスをしながら
 商売の先生から義理で教わることでないんだ
 きみのようにね
 吹雪やわずかな仕事のひまで
 泣きながら
 体に刻んでゆく勉強が
 まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
 どこまでのびるかわからない
 それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」
(宮沢賢治「あすこの田はねえ」)


 コンビニを出ると雨が降っていた。
 傘を持ってきていなかったので、濡れて帰った。朝出る時に空なんか見ちゃいなかったからだ。
 このままじゃ何にもならないな、と思った。
 自分はあんな経験をしたというのに。

-2010年4月-

 視界はあっという間に失われ、霧の中でもと来た道も分からなくなった。
 4月にこんなに雪が深いとは知らなかった。足元の雪は凍り付いて固くなり、6本爪のアイゼンでは滑ってしまいそうだった。こんな所に来るなら12本爪のアイゼンにピッケルが必要だった。何よりまず、こんな天気で登るべきではなかったし、さらに悪い事に、僕は誰にも告げずに一人で来ていた。
 日光女峰山の頂上直下、約2400m。迷っているうちに時刻は午後3時を過ぎていた。ここにきてようやく、状況の深刻さを理解しはじめた。僕は行く事も、帰る事もできない。このまま帰れなければ…。22年近く生きてきて初めて、自分が死ぬということを意識した。
 こんなはずではなかった。気軽に行って、帰ってくるつもりだった。ただ、翌日から始まる理学部最初の授業に気合いを入れていこうと、電車で一本で行ける日光の山を歩きに来ただけだったのに。
 とにかく来た道を戻ろうと、自分の足跡を雪の上に探した。斜面を横ばいに進もうとした時、足下が滑りはじめた。しまったと思った時には、もう滑り出して止まらなかった。灌木に引っかかって止まるまで、僕は数十mを滑落した。

 幸い怪我は無かった。ただ、自分が居る場所はもう分からなかった。風は強まり吹雪が吹きはじめていた。ヘッドライトと一日分の食料は持っていた。防寒具はレインコートのみ。手足の指先は痛みはじめている。6本爪のアイゼンは雪道では役に立たなかったが、雪洞を掘るのには使えた。とりあえず風をしのげるだけの穴を掘り、うずくまってザックカバーを頭から被った。何とかひとまず一晩は過ごせそうだった。けれど、もし明日吹雪がやまなかったら、その時は本当に賭けに出なければならない。斜面は登り返せそうにない。いっそ一番下まで滑り落ちて沢筋を行くか。しかし迷い込んでしまわない保証は無い。

 携帯が通じたのは全く偶然だった。滑落した距離がそれほど長くなかったのが幸いしたのかもしれない。ダメもとと思って見てみたら、携帯は電波が届いているマークを示し、auからのお知らせを能天気に受信してくれた。すぐに家にメールを送って、救助を要請してくれるよう頼んだ。翌朝、日光警察署から救助隊が登ってくるまで、僕は一睡もせず、ただ腕時計の秒針の動くのをずっと見つめていた。
 救助隊に連れられて山を下りると、すぐに救急車で病院に運ばれた。足の指が軽い凍傷になっているので、数日間の入院を告げられた。一夜明けると、病室の窓からは青い空と緑の山が見えた。
 数日経って東京に戻ると、多くの人に迷惑をかけた事を謝らなければならなかった。最初に実家に帰った。母は、呆れ果ててかける言葉もない、という様子だった。父は感情的にはならない代わりに、装備も計画も全く不十分だし、天候も考えていないし、計画書も保険も準備していないと、一人の登山者として僕のしたことを厳しく非難した。
 それから日光の警察署や市役所に行って、お礼とお詫びをした。また、救助隊の人には一人一人電話をかけた。大学に戻ると学科長の佐藤先生に呼ばれ、叱責を受けた。

 一週間もたつと日常が戻ってきた。しばらく山には行かないと約束していた。6月までは、おとなしく大学に通って勉強する日々を過ごした。こうして生活していられるだけで、なんて幸せなんだ。この日々の中に希望をみつければいい。そう思えればよかった。
けれど、少しずつ湧きあがってくるものがあった。
 
 夜、布団から出て、あのときの雪洞の中と同じ格好になる。
 お前はそれでいいのか。
 吹雪の音とともに声が聞こえてくる。
 お前は本当に生きているのか。
 
 何故あんな事になったのか。それは僕が山について無知で不注意だったからだ。
 では、もう山に行かないということにして、あの出来事をなかったことにして生きて行けるか。
 大学に通うだけの生活で、あの出来事を越えられるか。
 自分は山のことや自然のことを本当に知って、その中で生きて行くことを身につけていかなければいけない。そうしなければ、本当に強くなったとはいえない。

 多分まだ、自分はあの雪洞から這い出す事ができていないのだ。


 6月の終わりに、本郷にある小さな社会人山岳会に連絡して、入会する事にした。一月に一度くらいずつ、山に行きはじめた。
 今度は一人じゃなく数人で、計画書も提出して、装備も少しずつ揃えて行く。一から学ばなければいけない事ばかりだった。学生山岳部に比べれば、あまりにも遅くて、無様なスタートだ。それでも今自分のいる所から、一歩ずつ進んで行くしかないと思った。


-2011年7月-
 あの遭難から、気づけば一年以上が経っていた。
 山岳会の人達は本当に僕に対して親切にしてくれた。一緒にパーティを組んで登り、テントで食事を作って食べる。社会人の先輩達にとっては貴重な休日の楽しみとしての登山だ。生きているという事を実感する、至福の瞬間。僕も注がれた酒をいただき、一緒になって笑う。これでいい。

 本当にそれでいいのか。
 雪洞からまた声がする。
 お前があのとき震えながら心に決めた道を、本当に歩んでいるのか。

 限界に近づいているのが分かっていた。
 大学の授業を受けたり、演習の課題をパソコンで作業しながら、心はどこか別のところへ飛んで行きたがっていた。

 気象学の授業を受けているのに、あの日女峰山の山頂付近に吹いていた吹雪が、対流安定性や波動方程式と少しもつながっている気がしなかった。
 断っておかなければならないが、授業は非常に明快かつレベルの高いものだった。南極越冬隊にも行った佐藤先生は、大胆な発想と精密な論理で組み上げられた現代気象学の基礎を、丁寧に説明してくれていた。
 
 もしもその論理の意味するところを隅々まで理解していられたら、それはどれだけ楽しいことだろう。
 けれどもそのために必要なことは、大学の教室の中だけで得られるのだろうか。


 7月25日、夏学期最後の授業が終わると、僕は控え室に置いていたザックを背負って、地下鉄の駅へと急いだ。新宿駅でバスに駆け込んで、数十分後にはもう東京を離れていた。

 やれやれ、と思った。翌日には槍ヶ岳に登って、山荘で働く生活を始める。東京の息苦しい生活にはしばらくおさらばだ。ずいぶんと、要らないものばかりにとらわれて苦しんでいたものだ。

 さっき配られた気象学のレポート問題とノートは持ってきた。他には、観天望気の本や天気図用紙、スケッチ帳など、思いつく限りに。それから、旅先にはいつも持って行く、宮澤賢治の詩集と童話集も。

 ゆっくり考えようと思った。今まで大学で詰め込んできたものは何だったのか。自分にあの時足りなかったものは何だったのか。これから大学院に進むべきか、それとも他の何かをするべきか。
 つまるところ、自然とは何なのか。僕らが自然について知っているとはどういうことなのか。

 一ヶ月働きながら、山を降りるころには結論を出そうと思っていた。



-2011年8月31日-


 南の海上で発生した台風が、ゆっくり北上している。

 小屋の裏の小高い岩場に立って、現在天気に全雲量、視程、風向、風速を記録する。北側の目の前に聳え立っている槍の穂先も、今日はガスに隠れてしまい、登っている人も少ない。

 槍ヶ岳の肩の小屋では、一日二回、定時の気象観測の仕事がある。当番の従業員が専用の冊子に記録し、日本気象協会に電話で報告を行い、web上に発表される実況の登山天気の情報となる。
 最後の数日間、僕は頼み込んで担当をやらせてもらっていた。

 午後3時。視程は午前中より確実に悪くなり、南の風が強まってきた。
 web上では天気図も見られる。台風12号は勢力を増しながら当初の予報よりずっと遅い速度でもたもたと北上している。

 まるで自分の大学生活のようだ。
 今後の一年間をどんなふうに過ごすか、考えなければならない。けれど不安はない。すっきりした気分だった。
 
 結局、僕は一週間前に休学を届け出ていた。

-2011年8月23日-


 目を覚ますと10時を過ぎていた。
 
 長い夢を見ていたような気もするが、目の前の不忍池では相変わらず亀が日向ぼっこをしていた。


 これから大学に行って、理学部の事務室に行かなければならない。皆が試験を受けているのは工学部の建物だから、会うことはない。
 手続きはあっけなく終わった。書類を2枚書いて提出するだけだった。専攻長の星野先生は、特に僕に興味を示すわけでもなく、止めるわけでもなく、あっさりと判を押してくれた。

 夏休みの本郷キャンパスでは蝉の声がしていた。歩いている人は少なかった。


 もっと早く、こうしていれば良かった。
 意味も分からぬまま我慢して詰め込んで、いつかは分かると思っていた。でもそんなに苦しむ必要はなかった。
 大学なんて入らないで、こうしてザックを背負ってどこだって歩いていればよかった。色々なものを教わって、何者かになろうとするのは、その後でも良かった。
 そうすれば、大事なものとそうでないものにもっと早く気づくことができた。
 
 それでもこれからは、自分の思うように生きることが出来る。
 それはどれほど難しく、楽しいことだろう。
 そしていずれ、大学でやってきたことの意味を本当に見出すことが出来たなら、そのときこそ、喜んでこの最高学府に戻ってこよう。

いくつか買い物をして、夜になって新宿からバスに乗って、槍ヶ岳へと帰った。


-2011年9月-

 槍ヶ岳でのバイトは8月末で終わり、9月1日に台風から逃げるように下山した。途中で沢沿いの小屋でバイトしていた同い年の青年と一緒になり、二人で馬鹿話をしながら上高地まで歩いた。

 東京に帰るとまず両親に報告しなければならなかった。今までのように平然と、好きなようにしなさい、と言うのかと思っていたが、そう甘くはなかった。今からでも休学を取り消して卒業しなさい、と強く反対された。既に僕には一留という前科があり、遭難で迷惑をかけていたということもある。休学で一年遅れることは経歴としても小さくないマイナスになる。世間一般から見れば、甘ったれた生き方と見られることも当然かもしれない。
 それでも僕は休学して一年間を徹底して自然の中で過ごすことが、普通に進学するより自分にとって必要なことだと主張し続けた。説明するのは困難だった。ここまで長々と書いたようなことを、どうやって一言で納得するように伝えられるだろうか。結局、両親の反対を押し切って決行するという形になってしまった。

 佐藤先生からも、一度研究室に来て理由を聞かせてください、との連絡が来ていた。少し不思議に思った。何故、学生の進路に教員が干渉するのだろう。別に高校までと違って管理されるような立場ではないはずだ。とはいえ、先生には世話になっていた。まだ院に進学するつもりでいた6月頃、研究室を見学に行っていた。突然辞退するようなことになった以上は、自分の考えを説明しにに行かなければならない。
 先生は特に僕の選択を非難はしなかった。むしろ、研究者として未知の現象を見るときのように、どんな原理が働いてこの学生は休学するなんて変なことを言い出すのだろう、と知ろうとしているようにさえ思えた。
 大学院でも成長する機会はたくさんあるので、来年必ず戻ってきなさい、と言われた。有難く思った。

 東大の院で研究するというのはどれほど楽しく充実していることだろうと、先生の居室の本棚の専門書の数々を見ながら思った。暖かく清潔で、整っている。満たされた環境の中で、思う存分思考を組み立てて、そして戦わせることができる。けれど、自分に足りないのはむしろ空腹感だ。暖かさの中でも自分の意志を失わないでいられるなら、そのときこそここに戻ってこよう。

 
 9月9日早朝、ザックを背負って自宅を出た。今度は10月末まで、南アルプスの山小屋だ。 
 これからが本当の始まりだ。
 自分のしていることは単なる酔狂かもしれないし、見当違いかもしれない。あるいは親に言われたように甘えているだけなのかもしれない。
 それが一体何になるのか?という問いに常にさらされながら、悩みながら行くことになるだろう。

 大学の中にいればそんなふうに悩むことはなかっただろうか。
 教官や先輩が導いてくれるままにやっていれば、学会の中でとりあえず一つの仕事として認めてもらえるのか。きっと違うだろう。
 自分を確立しなければやっていけないのは、大学の外でも中でも本当はどうせ同じことだ。

 ただ自分は成長するための場所として、外を選んだというだけだ。
 

 深山大学という言葉は自分の思い付きではない。
 昔から槍ヶ岳の小屋では、夏休みに大学生がアルバイトで訪れていた。
早朝からの仕事や、集団生活、周りの自然や、登山者との付き合い方など、学生にとって大学とは一味違ったことを学ぶための場所という意味で、それは昔から深山大学と呼ばれていた。
 
 僕は東京大学を一年間休んで、日本や世界の各地で、自然と人間がより直接関わっているような場所で、働きながら過ごそうと思う。
 
 大学からはしばらく離れる。けれど、学ぶことを途中で投げ出すわけではない。
 ただ、場所が変わっただけだ。東京大学から、深山大学へと。

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